パパです。
お酒が好きなパパですが。よく飲むのはビールと焼酎。今日はその焼酎についてのお話を少々。かれこれ10数年前に社会人1年目からしばらくの期間を宮崎市で過ごしたパパ。その影響もあってか一番好きな焼酎は?と聞かれると「霧島」と即答します。ただ、一般的に言う霧島は「黒霧島」を指すことが多く、それも25度のものがほとんどです。
パパの愛する「霧島」とは「黒霧島」でなく「ただの霧島」それも「25度でなく20度」の「キリシマ」なのです。こう書くと何だか珍しい焼酎を好きな変わった人のように思われそうですが、パパが新入社員時代を過ごしたころの宮崎では霧島と言えば、この「20度の黒じゃない霧島」しか存在していませんでした。
で、最近興味が出たので調べたところ、黒霧島は平成10年に販売を開始したブランドだそうで、当時大きく出荷数で水をあけられていた麦焼酎に追随するため、黒麹で仕込み、独特の香りを抑えた商品として主に大都市圏へ向け出荷されたようです。
パパが入社したのは平成9年ですので記憶は正しかったことになります。
現在では「黒霧島」と区別するために「白霧島・・略してシロキリ」なんて呼ぶこともありますが、パパ的には「霧島」と呼びたい。


では「20度」というのは何だ?というところには全く別のストーリーがあります。

20度の焼酎の誕生の物語は「終戦直後の混乱期の宮崎」からスタートします。終戦を迎えた昭和20年の8月、そこから始まる混乱期に宮崎県へ多くの移住者が辿り着きます。その多くは「奄美大島」や「沖縄」を離れてきた人々で。薩摩藩による琉球支配の歴史などもあり、鹿児島側でなく宮崎県を目指す人々が多かったと言われています。温暖で自然が豊かで食べ物が豊富だとのウワサで宮崎の地を目指した移民たちですが、宮崎での暮らしは決して豊かなものではなかったそうです。移民たちは集落を形成し生きるための道を模索しました。そこで生まれたのが「密造酒作り」だったのです。

島での暮らしで身に付けていた「でんぷん」の精製技法を活かし移民たちは「密造酒」を作ります。そして持ち前の行動力で宮崎県全域、そして大分県や鹿児島県の一部へも販売網を拡大して行きました。
当時の日本にとって「酒税」は貴重な税収のひとつで、国としてもこの「密造酒」を放置しておくことはできず、何度もガサ入れを繰り返しますが、イタチごっこの状態で消費者にも値段の安さなどで支持されつつある「密造酒」を排除することはできませんでした。

そこで、国税局は思い切った政策を決定します。それまで25度以上の酒に対して課していた税率の最低ラインを20度に下げ、宮崎県の蔵元にのみ20度の焼酎を販売することを許可したのです。「密造酒」は安さのため人気を得ていましたが、やはり設備などの制限もあり、その度数は20度程度だったと言われています。そこへ言わば「メーカー製」の20度の焼酎が、密造酒と同等のレベルの価格で登場したのです。
この勝負の結果は明白でした。こうして密造酒は宮崎から姿を消したのです。ただ、密造酒を作って生計を立てていた人々のため、染め物など彼らの技術で行うことのできる新たな産業への就業支援を行ったという暖かい話しもあるようです。

こうして宮崎県と大分県の一部では「20度の焼酎」が定着し、もともと「水割り」など「割って」飲む習慣の少なかった宮崎で現在に至るまで受け継がれているというお話です。
パパの好きな「霧島・20度」は霧島裂罅水(きりしまれっかすい)とよばれる湧き水で作られています。この水は適度なミネラル分と炭酸ガスを含む「焼酎づくり」に最適とも言えるまろやかな水だそうです。20度の焼酎もボトル詰めの前の段階までは25度の焼酎と同じです。最後に水を加えて20度の焼酎として出荷されるのですが、当然そこで加える水も「霧島裂罅水」です。適度な度数まで仕込みに使った水で割られた霧島20度のロックがウマくないわけがありません。


もう飲みたくて限界なのでこの辺で。

霧島裂罅水(霧島酒造ホームページより)